実体美と状況美

晴風論集 (1)
二〇二六年七月二十三日

 或るアメリカの学校で、こんな試験が行われたらしい。「この世で一番美しいと思う動物は何ですか」という問題。アメリカ人の学生は皆「キリン」とか「ライオン」とか答えます。一方、日本人の学生は即座には答えられなかったそうです。おそらく、僕が訊かれてもそうなると思いますよ。けれど、「夕焼けの空に鳥が飛んでいる」。これは綺麗だなと思う。学生も皆そういう風に答えたらしい。どういうことか。
 きっと、欧米人の思想は「実体美」を求める傾向にある。それに対して、日本人が求めるのは「状況美」なのだと思う。だから、日本人には答えられる筈が無い。たとえカラスであっても、夕焼けの真っ赤な空に、たった一つしかない雲に向かってカァカァって鳴いてたら綺麗だなと思うでしょう。
 しかも、今日の夕焼けは明日も同じ夕焼けになるとは限らなくて、一度きりの夕焼けだと考える。そこに目の前にカラスが三匹飛び立っていった。秋である。すると、何の因果かそこに枯れ葉がハラハラと舞う。このように偶然性が掛け合わさってくれば、より日本人の心は震えますね。そういったものこそを「美しい」と言いたい気持ちが我々にはある。
 そうした心が俳句というものを生み出したんだと思う。俳句が語るものは、決して実体じゃありませんね。例えば「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」って、それは柿について語ったわけでも、法隆寺について語ったわけでもない。法隆寺と自分と柿の、それらの状況の中きっと鐘でも鳴ったんでしょう。それを美しいと感じたんでしょう。状況美は二度と帰ってこない。一方、実体美には終わりが来ません、自分が死なない限りは。

 こうして考えてみると、「状況美」に対する感受性は「技」の世界に似ているという事が分かる。

 或る製鉄会社が創業百周年のパーティーで、名刀政宗を再現した刀を作ってお披露目する事になった。鉄の分量や分子構造に至るまで、最新の科学技術を駆使して本物の名刀政宗を解析し、そっくりなものを造ってパーティーに間に合わせた。当日は江戸時代の風習にならって試し打ち(幕府がその刀を採用するかしないかの試験)が行われた。その試験は簡単で、桶に水を張ってここに刀の平をパンと打ちつける。これで折れなければ合格。実は刀というものは物や人を斬ると曲がってしまうのだそうです。お侍さんは刀をクルクルと回してから納刀するでしょう。あれは、そうしないと鞘に入らないからだと言う。驚きでしょう、その僅かな時間で形が復元されるなんて。だから、ただ頑丈なだけではダメなんです。もちろん、かといって折れてもいけない。仕上がりには絶妙なバランスが求められる訳だね。

 それで、パーティ当日に完成したものを水に打ち付けたら、ポキっと折れてしまった。分子レベルまで一致させているのに、名刀と同じものにはならなかった。

 刀鍛冶の仕事といえば、熱した鉄をカンカン叩いてすぐ水につけるだけなんだから、それを「方法」として考えれば絶対に機械でも出来る事だと思う。ところが、鍛冶屋は実のところ方法なんてものは求めてない。針の穴を通すような絶妙なタイミング、その〇.〇〇〇一秒の間にしかできない事を目指している。
 このタイミングは「方法」じゃない。その時限りの「特殊」。一生に一回、この瞬間だけ。その一瞬を生む状況で、自分に何ができるか。これを追求する事が「技」と言われるものだろう。それは決して「方法」と同一視してはならない。職人は、全く同じものを作ってるように見えるけれど、その都度自分の中で最大の、人生に一回これっきりの名品と言うものを生み出したい気持ちで仕事しているのだと思う。


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  方法と技

 特殊性を追求する職人の技。それはただの山勘でやっているのだろうか。そうじゃない。ここにはどんなジャンルの職人にも共通した、或る思想がある。
 たとえば、船大工の技術で《木殺し》というものがあって、この技法を調べてみるとその事が分かってくる。船大工は長い木の板をいくつも貼り合わせていかなければならないでしょう、一枚じゃ船なんか出来ないからさ。しかし材料が木なものだから、貼り合わせていくと継ぎ目が伸びたり縮んだりして隙間が空いてしまう。ここで「木殺し」という技が必要になってくるという訳だ。それは一見すると、板の木口を金槌でただ叩いているだけの作業。しかし弟子には絶対にやらせない。それだけ重要なものなんだね。
 まず木口を叩いて傷をつける。下の木口も同じようにやって、これを貼り合わせると穴が出来る。このまま一週間ほど放っておくと、この穴が木の復元力によってピタッと埋まり、噛み合わさって、二度と外れる事はなくなる。これが木殺しという技。
 さて、日本の職人がずっと追求してきたものの中に一貫してある思想とは何か。木殺しという技は、自分の腕を振るうだけでは無くて、木を生き物として扱って、木の生き物としての動きを知っていて、その動きを引き出すようにわざと傷をつけている。大工は金槌によって加工はするけれど、加工した事によって初めて木の中で復元する力が生まれて、グーッと来てピッタリくっつく。つまり、簡単に言って木の動きの《誘導術》だ。火を用いても、土を用いても、い草を用いても、つまりそれらを加工する術では無くて、誘導する術なんだ。ここに日本の職人の技芸、その根本思想がある。

 誘導とは、すなわち誘うこと。そして誘うことが唯一の人為であり、誘われて出てくるものは相手自身の力である、という考え方。例えば薬を飲むという事は、薬の成分の作用に基づいて体がこうなるというものだから、つまり身体を加工する行為に等しい。
 以前、会員さんが「あなたの赤ちゃんは妊娠八ヶ月にして既に四千グラムを超えている。産道は細いんだから産まれるわけが無い」と検診で言われたと相談しに来たことがある。物質ならば出ないでしょう。しかし、赤ちゃんは生き物なんです。生き物はあなたがいきまなくても出ようとするんです。出る力を持っているんです。だから「誘い出せば出てくるんだよ」と言いました。ウチの子なんて蝋燭の火に誘われて出て来たんだからね。
 昔、父親と飯を食っている時に耳の中に虫が入った。慌ててほじくり出そうとしたら、父は「黙って耳を光に向けろ」と言った。こうかなってやってたらピュッと出て行った。これも誘導術ですね。ほじくれば加工だ。虫は死にます。加工と誘導では大分出来事として差がある事が分かるでしょう。
 前近代における日本文化や職人の技芸においては、この「誘導」という一貫した思想が横たわっている。そしてその思想は精神というよりも、身体の中にこそ脈々と紡がれてきたものだと思う。


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  分岐点

 僕が大学生の頃に父に聞いたことがある。その頃、僕のおふくろが大病して、もうなんというか、死臭が漂うとはこういうことなのかというくらい、部屋に入ると臭うんです。やせ細ってしまって、皮膚は黄土色になっている。それで僕は父に尋ねた。

「人間が生きるか死ぬかの瀬戸際まで行った時、生死を決める最後の分岐点は何処なんですか、何によって決まるんですか」
 すると父は間髪入れずにこう言ったんです。
「美を感ずる感性。これが失われたら人間は死ぬ。微かでも美を感ずる感性が残っている人間は生きる」
「お見舞客が持ってきてくれた花が枕元にあったとして、その花の香りが『いい香り』と一言でも言う病人は皆生きる。花の香りが部屋中一杯に漂っているのに、その香りに集注ができないで、自分の体臭にだけ目が向く者は死ぬ」
 この言葉によって僕は整体をやろうと思った。もしその時に、父が「自然治癒力が衰えたら死ぬ」とか答えていたら、僕は絶対に整体をやらなかったと思う。

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