
一般社団法人 晴風学舎機関紙『風韻』(涼風至)より抜粋
令和八年八月一日第一刷発行

”稽古場” (一九八八年~二〇二六年)の ”一なり” 角南和宏
晴風学舎
晴風学舎が立ち上がって三ケ月になる。稽古に来ている人たちには、「ここでやることは、これまでと変わりませんから」と話していたにもかわらず、四月の半ばになったころだったか、なにかが変わっていることに気づいた。ひとことでいえば、「待てる」ようになった。一体全体この変化の源はどこにあるのか探っていくと、身の回りから「整体」という言葉が消えていることに行き当たった。書類にも肩書きにも整体という言葉が見当たらない。晴哉先生がはじめた整体協会に所属することを誇りに思っていたにもかかわらずである。つまり、ここ半世紀、親戚友人一般の人たちに、自分たちの整体は、よその整体とは違うのだと説明するために、どれだけ気張っていたのか。そう、野口晴哉に戻ればよいのだ。
私が晴哉先生を知ったのは一九七〇年代の後半のことで、その時すでに晴哉先生は亡くなっている。つまり、晴哉先生を知らない最初の世代ということになる。晴哉先生を知る人たちに訊くと、「先生は素晴らしい人だった、すごい人だった」、と判で押した様に同じ答えが返ってくる。しかし、どう素晴らしく、どう凄かったのか、それが皆目わからない。晴哉先生の薫陶を受けた人は、それだけで充足しているようであった。晴哉先生の著作を片っ端から読みはじめ、読むだけで人生を後押しされるような空気感は感じられるが、技術の話になるとまるでわからない。晴哉先生と出会えなかった私は、どのように晴哉先生を知ることができるのだろう。
「野口晴哉を知るには、野口晴哉の技を学ぶしかないのです」とは裕之先生の言葉。稽古場は、野口晴哉を学ぶ場として立ち上がった。一九八八年のことである。
風韻以前
稽古場の機関紙として「風韻」が発行されたのは一九九五年。稽古場創設から七年後のことになる。当時はまだ整体法研究所という名称が使われていて身体教育研究所に名前が変わるのは、技術研究員・動法教授資格という資格制度が整備される一九九八年になってからのことである。
それまで、どのようにお知らせを周知していたのか不思議ではあるが、基本、稽古の場は、二子玉川にあった本部稽古場であり、数年の時を経て、大井町稽古場(一九九三年)が生まれたくらいで、つまり、本部稽古場に登っていく階段の途中にある掲示板にメモを貼っておきさえすれば、十分事足りたということでもある。
手元に風韻のバックナンバーが百号まで残っている。一九九五年から二〇〇〇年までの五年分なのだが、最初の3号は風韻ではない名称が冠せられている。「動法世代」というのがそのタイトルであったのだが、不評であった。螢雪時代(当時の受験雑誌)を思い出していやだ、単純にダサい。散々の評判であった。3号までは動法世代を使い、4号目で風韻に改名された。この機関紙の編集は角南が担当していた。不評を買ったこの「動法世代」の命名も同様。しかし、このタイトルに込められているのは、「オレたちは動法の世代なのだ」という自負であり、稽古場開設七年目における稽古場の立ち位置の表現であった。稽古場は動法を稽古する場として認識されていた。この日の目を見なかった動法世代であったが、この頃から、私自身はdohokidsを名乗り始める。
内観と動法
身の内観と動法は稽古場の両輪でありつづけてきた。稽古場に先立つものとして、整体生活実践講座という一般会員向けの会が毎月整体協会の本部道場であった。行気によって、季節に応じ自らを整えていくことを主眼とした会であったと記憶している。月刊全生でたどっていくと一九七九年まで遡ることができる。稽古場の萌芽はこの整体生活実践講座に求められるはずだが、ここから稽古場が誕生するまでさらに十年近くの実践が必要であった。
整体生活実践講座における行気に、いつから動法という稽古が重なっていったのかは定かではない。本部稽古場が創設されたのが一九八八年であり、年5回開催されていた講習会で動法的なものが姿を現すのもこの頃である。野口晴哉の技法の独自性は、伏臥で寝ている人の背中に跨った体勢で触れることであるとして、最初はひたすら沈みの稽古。稽古場の活動がはじまる以前から、夜中、研究生を集めて、本部道場の3階で蹲踞の稽古をやっていた。当時は研究生の数も多かった。どこにでも顔を出す億岐さんも混じっていたし、事務局入りたての私のような人間も、稽古の輪に加わり、一緒に「花の輪~」とか号令をかけながら、汗を流していた。ただの体育会系部活である。二十代、三十代と、みな若かった。
稽古場の活動がはじめて月刊全生に紹介されたのが一九八八年の十一月号。指導にあたる裕之先生の写真も掲載されている。裕之先生は洋服姿。参加者も同様である。最近稽古をはじめた方たちにとって、参加者が稽古着を着ているというのは自明のものとしてある。とはいえ、稽古会最初期のこのような風景は記憶されておいて然るべきだろう。
野口晴哉を明治時代に生まれたひとりの日本人と捉え、その時代を生きた人々がどのように自らの体と向き合っていたのかを探究する過程で動法という稽古が誕生した。医学的身体は明治の人も現代人も、そう違いはないであろう。でも、身体観はまるで違っていた。これに気づくことで、文明開化を逆方向に走りはじめる。裕之先生が文化を生きる身体を語りはじめるまで、ここからは、そう多くの時間は必要としなかった。
それにしても、あの頃かいた汗はなんだったのだろうと思う。全力=汗をかく=筋肉痛、それが動法という稽古の実感であった。同時に、きわめて昭和的風景であったともいえる。年寄りの悪癖として、自分が習ったように、人に伝えたいという欲求が潜在している。自戒せねば。
文化
稽古場が古典の探求に入るまで、まさか、自分がいわゆる「和」の世界に足を踏み入れるとは思ってもみなかった。お茶を習い、連句の会に参加し、一日の大半を和服で過ごす。しかし、野口晴哉の技が、日本文化に根ざしているという見立てに沿えば必然でもあった。もう、四半世紀前のことであるが、当時、大船にあった鎌倉稽古場で催された「着物を着付けてもらう会」での記憶は鮮明である。和服をちゃんと着付けてもらうことで、「大人の気分」というものを生まれてはじめて味わったのだ。それがどんな気分であったか、上手くは説明できない。しかし、その「大人の気分」は、文化と接続されることによってもたらされた感覚であったことは疑いようもない。体は文化を生きていることを実感した瞬間であった。
「野口晴哉を知るには、野口晴哉の技を学ぶしかない」から始まった稽古場の冒険は、日本文化に深く踏み入っていく冒険であった。伝統を学ぶことではなく、むしろ「伝統」とされてきたものを疑う作業であった。稽古着は日本の伝統を汲むかもしれないが、野口晴哉の技を探究する過程で「発見」され「創造」されてきたものであり、今なお、変化し続けているものである。
初心
最初に書いたように、晴風学舎になってなにかが変わった。そう、初心に帰ったのだ。僕自身が追いかけていたのは、野口晴哉であったということ。そして、稽古場の活動は、すべてそれに捧げられてきたということ。自明のことなのに、すっかり忘れていた。
最後に、芭蕉の一文を引用して本稿を終えることにしよう。笈の小文の序文である。
百骸九竅の中に物有。かりに名付て風羅坊といふ。誠にうすものゝかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好こと久し。終に生涯のはかりごとゝなす。ある時は倦て放擲せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたゝかふて、これが為に身安からず。しばらく身を立む事をねがへども、これが為にさへられ、暫ク学て愚を暁ン事をおもへども、是が為に破られ、つゐに無能無芸にして、只此一筋に繋る。西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ処月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。
神無月の初、空定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して、 旅人と我が名よばれん初しぐれ
ここまでの稽古場の活動は、「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり」の系譜に野口晴哉を、そして、我々自身をも組み入れようとする壮大な試みであった。そして、この試みはまだ始まったばかりなのだ。









